2008年3月24日月曜日

海の風と雲と―異端的太平洋戦記― 愛洲昶
 誰もが独りで地心のうえに立っている、
 太陽の一本の光線に貫かれて――
 そしてすぐに日が暮れる。
        サルヴァトーレ・クァジーモド

むせ返るような潮の匂いにつつまれて、一瞬、何も見えなくなった。
肌にべたつく冷たい飛沫のせいか、閉じた瞼が開けづらい。
《ああ、おれはなんてことをしてしまったんだ!》
杏色の菊の花びらを谷間に秘めた白いふたつの小山。それが目のまえに砕け散ったのちも、つぎつぎにうねり寄せてくる濃い闇、また闇。いまはいくつもの波濤の黒い塊のうえを、飛沫まじりの凍てついた烈風が吹き荒れて、薄い闇がただ広がるばかりだった。凍てつく闇が噴きだした飛沫のトンネルの先に海と空を分かつものはもはや何ひとつなかった。
《ああ、奈々、おれは死んでしまいたい!》
そんな呻きさえ、内地を遠くはなれて死地におもむくいま、やっと梶木洋介の唇に訪れたのだった。薄い闇のなか、舞いくるう飛沫の向こうにじっと目を凝らせば、左舷前方七百メートルにわずかに濃い闇が揺れている。艦尾に見えかくれする識別灯で「長門」だと知れる。おなじく左舷の後方七百メートルには「龍驤」、そのさらに九百メートル後方には二隻の水上機母艦が追尾しているはずだったが、それと告げるものは何もない。
「長門」の前方八百メートルをゆくはずの「神通」はおろか、左右一キロ足らずを併進する護衛の駆逐艦さえもむろん見えない。衝突の危険はたえずつきまとうものの、荒天暗夜のほうがこの艦隊にとってはまだしもだろう。白日のもと、敵潜水艦群に挑まれたなら、戦場にゆきつくことさえできないだろう。輸送船団十八隻、陸軍の精鋭三個師団五万五千人は厳寒の北太平洋の藻屑と消えさることだろう。
「龍驤」に今回新たに甲板積載の零戦十六機が加えられたのは心強いけれども、後ろの母艦二隻の水戦三十機は対潜哨戒に回すほかはあるまい、雷撃機デヴァステーターを追い払うくらいのことはできようが。急降下爆撃機ドーントレスや長距離爆撃機〈空の要塞〉の大編隊が飛来したなら、全滅覚悟の戦いとなろう。この「陸奥」の主砲が何の足しになるものか。
いくら開戦まえとはいえ、七万余名の陸海軍将兵のいのちを敵前に曝すのは、賭けの中の賭けといってよい。が、もともと米英相手のいくさなど、烏滸の沙汰なのだ。
《奈々よ、ばかなおれでさえ、この国よりは分別がありそうだ》
一九四一年十一月十四日に択捉島単冠湾に集結して、十七日深夜の出撃いらい七日間、ハワイ攻略部隊はひたすらハワイ北方三百キロの洋上めざして最短航路をとっている。
船足のおそい攻略部隊が機動部隊に同行しえないのは理の当然だとしても、おれたちよりもさらに北寄り八十キロの航路を東進する機動部隊の連中は、おれたちを囮にして敵機動部隊を誘きだし、叩く心算なのか――髭面をしかめて梶木中尉は自問する――仮に山本五十六が連合艦隊旗艦を「長門」から新鋭空母「翔鶴」に移してまでも自ら機動部隊に出張っていかなかったなら、到底許される作戦ではないのだ。
いまごろ北へ八十キロ隔てた時化の海では、機動部隊がおれたちを追い越そうと苦闘しているはずだ。そしてあいつらは三日後に出撃したくせに、おれたちよりも三日早くハワイ北方三百キロの合同地点に着く。それからあいつらの目論見どおりに奇襲が成功するか、果たしておれたちが無事あいつらと合流できるかどうかで、緒戦の勝敗が決まる。
わかり易すぎて涙が出てくる。こんなことのために何万もの人間が生命を落とすのだ。
《おい、雨宮、なんとか言え、きさまは「蒼龍」で張り切っているかもしれないが、おれの腹の下の奈々の尻の白さを、きさまは知るまい》
落日に赤く燃えあがる障子の裏側で、柿の小枝が火の気のない青畳のうえに落とす寒ざむとした影のわきで、温もりの茂みを抜けでたばかりのおれの分身は頭から湯気をたてていた。白いふたつの小山を両手でわけると、紅い唇の名残りのわれめの線上に、杏色の菊の花弁がひっそりと息づいていた。
「ここは初めて?」
と、ふれると奈々ははげしく首を振った。初めてではないのか、いやいやなのか、どちらともとれる仕草だった。おれはかまわずに親指を差しこんでぐるりと回し、杏色の菊の花弁がめくれた白っぽいピンクの祠に、おのれの固い分身の頭をねじこんだ。腹ばおうとする奈々の尻をおれは高く掲げた。美しいたおやかな背をくねらせて奈々は右手に顔を伏せたまま、いつしか左手で床柱を掴んでいた。こねくり回すまえに、いやさらに深く突きたてるべく、ゆっくりと首もとまでおのれの分身を抜きにかかると、雨宮よ、奈々は言ったのだ。
「抜かないで!」
あのひと言で、おれの頭のなかの暗闇はいっそう深まった。
「殺して!」とでも言ってくれたなら、あのまま両手で美しい獣を縊り殺すこともできただろうに。
なにも親友を裏切ったなんて、安手の感傷にひたって嘆いているのではないぞ、このおれは。あの日、奈々は唐突に告げたのだった。
「決行は中止よ!」
「なに! 待ちに待った秘密指令がそれか!」
「決行目前に爆殺を中止して、おれたち戦闘団はどうするんだ?」
「あんたたちは何事もなく、そのまま出撃すればいいの!」
「民衆の敵東条とともに粉々になって飛散するはずであったのに!」
「指導部の糞ったれども!」
「この身は生きながらえて、帝国主義戦争のなかで『名誉』の戦死を遂げるのか!」
終始無言だったおれも含めて、秘密結社〈シリウス〉の精華たる第七戦闘団の仲間たちが容易に納得しえないのは当然であった。軍国主義の独裁者、東条英機を爆殺し、大東亜戦争を阻止することこそが、おれたちアナーキストにとって、わが身を擲つに足る目標であった。中止の理由については、おれたちの追及にもかかわらず、何の説明もなされなかった。
あまつさえその日、奈々の兄、七郎は離れの裏庭で血塗れの無残な死を遂げていた。いったい誰が、なぜ、あのときに、あそこで七郎を殺したのか? 誰がなぜ七郎をあのとき、あの場で殺さねばならなかったのか?
《雨宮よ、おれたちの結社はいったいどうなるのだ? この日本は? 世界は? テスナカイ・ダドロス・ゼーロ!(おれは本当に死んでしまいたい!)いっそ、いまこそ眼前に、敵の主力戦艦部隊が忽然と現れて、初弾をこのおれに、この洋介の頭上に見舞ってくれるとよい!》
と、うめく梶木の頭上に盛大な波飛沫が降りそそいだ。このとき中尉は潮まみれの口中で何か不可解な、およそその場にそぐわない言葉を叫んだ。
「はまーしゆよ、たつねひ、ざんばひ!」
涙と洟と潮にまみれた彼の唇を、時化の暗闇の中でも読むことができれば、それは
《アナーキスト革命万歳!》
と、聞こえなくもなかった。
おれに隠れた生命をくれ、
さもなければいっそおれを隠してしまってくれ、
夜よ、風の吹きわたる海よ。
                     (クァジーモド)
《そして死は/心のなかの空白だ。》
心のなかの空白が死であるならば、おれの心のなかは無数の死で犇きあって、いまにも胸が張り裂けてしまいそうだ。

 翌日正午、すでにハワイ攻略部隊から七百キロも後方にとり残されてしまっていたミッドウェイ攻略部隊はここに面舵いっぱい、一路南下、ミッドウェイ北方三百キロを目指した。前夜までの荒天とはうって変わり、海も空も光にあふれて目が痛むくらいだ。大気までもが馨しい。潮風を腹いっぱいに吸いこむと、「わが企てに可能ならざるはなし」という気がしてくるから不思議だ。いま、波間を切って飛ぶのは飛び魚の群れか。
 艦隊の一隻一隻も判然と見わけられる。五隻の輸送船は大きさも大小まちまち、当然、その運べる兵員・物資にも差はあるのだが、なお歴然としているのは互いの速度の違いだ。船足に多少の余裕のありそうなのもあれば、これが精いっぱいという感じの船まである。
すでに機動部隊とハワイ攻略部隊のために可能なかぎりの輸送船を拠出した軍令部は、これ以上の悶着を避けて機密保持のためだけにでも、南方作戦から輸送船を割いてこちらに回すわけにはいかなかったのだろう。それでもさすがに十四ノット以下の低速船はなかったものの十五、六ノットがせいぜいだった。
艦隊の先頭を切ってすすむ「川内」と五隻の駆逐艦は水雷戦隊の花形だったが、輸送船の護衛に回ったあとの四隻はやはり対空機銃が五銃ずつ増配備されたものの、いずれも旧型艦で本土の沿岸防備にまだ回されていなかったのが不思議なくらいの代物だった。
練習空母から実戦空母へと急場凌ぎの大改造(速力増加と飛行甲板の延長・拡幅が主たる課題だったが)を経たばかりのこの「鳳翔」、水上機母艦二隻と、比較的恵まれていたのは航空戦力で、これなら開戦当夜の「伊勢」の艦砲射撃による奇襲攻撃に生き残った島の残存敵機にじゅうぶん対抗しうるように思えた。
問題は「伊勢」の殴りこみ奇襲が成りたつかどうかだ――「鳳翔」の飛行甲板で眩い陽光のなか白波を蹴たててゆく「伊勢」の艦尾を見すえながら川名少尉は思った――航続距離の長い敵哨戒機が飛来してわれわれを発見すれば、この艦隊の陣容からして攻略の意図はあきらかなのだから、明日か、おそくとも明後日には敵の空襲を受けることになろう。
彼の肚のどこかにはそれを期待するものがあった。少なくとも「伊勢」の艦砲射撃でよれよれになった生残りの敵戦闘機を屠るのを潔しとしないものがあった。
けれども敵は哨戒距離をのばすために北西から南西までに扇型の哨戒範囲を狭めていることだろうから、真北から侵攻するこの艦隊がまぢかに迫るまで発見されない可能性は常にあった。
明け方直前、パールハーバーの敵艦に初弾が投下されるころ、こちらではミッドウェイ島は夜の闇につつまれているだろうから、こちらの初弾はどうしても「伊勢」艦載の水偵がつるす吊光弾の眩い光のもと「伊勢」の主砲が火を噴くことになる。
あの「伊勢」は設計上のミスがあって主砲全部を斉射すると射撃盤がくるうために前後部砲塔を交互斉射するしかない。それではと後甲板だけを飛行甲板にして航空戦艦にする案が急浮上して、あやうくドック入りしそうになった。それを「戦闘運用上の愚策だ」と山本五十六が一蹴して、この作戦後に、困難な課題ながら、僚艦の「日向」ともども完全な攻撃型空母に改造することに決した。
それゆえミッドウェイ攻略戦が戦艦としての「伊勢」最後の桧舞台となったわけだ。それを思えば「伊勢」主砲のあの精悍で頑冥な砲員たちのためには、深夜の奇襲砲撃をなんとしても成功させてやりたい気もしてくる。
《おれは暢気者だな》
と、白い絹の飛行マフラーを潮風にはためかせながら、戦闘機乗りにしては珍しく長身、やや蟹股の川名少尉は自嘲した。
《だから、愛子にまでばかにされるのだ》
夕闇たちこめる池畔の公園につづく坂の下で、愛子はくるりと背を向けて、
「いったいいつ川名さんはあたしをお嫁さんにしてくれるの?」
と、低い声でささやいた。愕然として薄い肩を掴んでこちらを向かせると、美しい頬をゆるめて声もたてずに愛子は笑っていた。それからふたりがどうやって池のはたの雑木林に入ったのか、川名は憶えていない。
気がつくと、おれは愛子の唇をはげしく吸っていた。どのくらいの時がたったか、ついと愛子が身体をはなした、
「いたい!」
と言って。怪訝顔のおれに、
「ここがおなかにあたるの」
と、盛りあがったおれの股間をズボンのうえから細い指で撫でた。
巧みにおれの口のなかで舞う愛子の舌に夢中だったおれは、おのれの股間の一物がおかれた状況についてはすっかり失念していた。愛子は跪くと、止めるまもなくジッパーを下ろして、おれの一物を冷え冷えとした夜気に曝した。
愛子の白い顔のまぢかで、そいつはこのおれが見たこともないほど猛々しく怒張していた。仰向くと愛子はその愛くるしい口を尖らせて、そいつに「ふーっ」と息を吹きかけた。それから頬ずりをくり返すのだった。おれは愛子の髪をそっとつかんで顔を仰向かせた。ようやくそいつに唇を這わせた愛子は舌を舞わせていたのに、あっというまもなくそいつの頭を口中いっぱいに含んでしまった。
愛子の左手がそいつの根もとをしっかりと掴んで、小魚のようにすばやい右手の指先がそいつの袋を撫でながら翻り、おれの肛門へと這う。いつしかおれは愛子のうなじに手をあてて、前後にやさしく揺らしながら、池の遠くを眺めていた――少しでも長く、この至福の瞬間がつづくように。
おれは愛子の裸の尻を両手にささえていた。愛子は両足をおれの背にまわして、両手でおれの首にしがみつきながら、おれの口を吸っていたが、右手をはなすと、そいつの頭を掴んで、おのれの秘所の上から下までなぞらせたあげくに、最も熱く潤った襞のなかへとそいつを誘導した。いつしかおれは愛子の尻に手をあてて、上下左右にやさしく揺らしながら、池の向こう岸、黒い森の梢に降りる鴉を眺めていた――永遠に、この至福の瞬間がつづくように。
「どどーん」
と、おれはそいつが打ち上げ花火にでもなったかのような気がした。たしかに目のなかに七色の星がいくつも散ったのだった。そいつが潤んだ蛇腹に締めあげられるみたいな感じがしたとたん、怪鳥のような叫びがまぢかに発して、水面に漣がたった。
それが愛子のあげた喜悦の声だとは、川名少尉にはとうてい信じられなかった。
「おまえはどうするんだ?」
「………」
「決起をまえに、みすみす出撃しろというのか?」
「………」
「なぜ、七郎さんを殺したの?」
「ばかな!」
思えば、愛子は、結社のなかでおのれが果たす役割については、とうとう触れずじまいだった。
それを知ったなら、果たして少尉はいま艦上の人であったかどうか。
おのれの属するアナーキスト秘密結社《シリウス》第五戦闘団が、国内での決起を目前に、みすみす出撃してゆくことに、少なからず憤りを覚えていたのだから。
それにもまして奈々の兄、七郎の無惨な死に、川名は不審を覚えていた。
《七郎を殺したのはおれではない。おれはただ、井戸端に倒れ伏していた死体の両足首を掴んで、傍らの竹藪に引き摺り込んだだけだ。
咄嗟に桶の水を撒き、あたりを竹箒で掃いたのさえ、まだ屋内にいるはずの梶木中尉と奈々のことを思ったからだ。なぜ中尉はいまになって、佐々木七郎陸軍大尉を殺さねばならなかったのか?》
頬を撫であげる潮風に、ふと目を左舷に転ずると、大河原少年が愛機零戦の脚もとに蹲ってなにやら没頭していた。剣道三段、跳びこみ面が得意技という川名少尉の目下の愛人はこの愛機と、この少年整備兵だ。
《おれのこんな厄介な性行がなかったなら、あいつぐ転戦・転属や、だいいちこの「鳳翔」での出撃もなかったはずなのだ》
少年と愛機のほうへ大股に歩みながら、川名少尉が考える。
思えば、ここに集まった戦闘機乗りたちはいずれも一風変わったあぶれ者や暴れん坊ばかりだ。営倉から直行してきた者もおればかりではあるまい。ともあれ、腕がたしかで、度胸さえあれば、それでよい。
「おい、大河原、何をしている?」
直立もしないで、油まみれの美少年が手をやすめずにこたえる。
「ほんとは機首に描きたかったんだけど」
 見ると、敵機マークが三つ半、そこに綺麗に描かれている。
「何だ、この半かけは?」
「支那戦線での少尉の戦果は三機撃墜、一機不確実でしょうが」
「こいつめ」
と、巨きな眸の大河原少年の頭を小突きながら、
《最も近い機会に音をあげるほどに愛しまくってやるぞ、それとも、愛機の脚のタイヤカバーに撃墜マークが数個ふえるほうが先か》
と、少尉はひとりごちる。目をあげると、右翼の十四ミリ機銃が真上に見える。右手を伸ばして銃身を握り締め、ざらつく鉄の地肌を手のひらに確かめる。
「こいつは正確には十三・八ミリだが、射程が長いし、速いし、正確だ!」
「でも撃ち続けるとしょっちゅう焼け付いて、銃身の取り替えが大変だそうじゃないですか? 替えの銃身ばかりごっそりと積み込んでありますよ」
「よお、ご両人!」と、いつのまにか寄ってきた三谷飛曹が口を挟む。「しかしだなぁ、おれたち『鳳翔』甲板乗組の戦闘機乗りのうちで、小便撃ちのあの二十ミリ機銃を羨む者などひとりもいないぞ!」
「機首に二銃、両翼に二銃と、十四ミリを四銃も付けちゃって、おまけに操縦席にはL字型防弾鉄板まで嵌めこんで、重すぎない?」と、少尉とふたりだけの時間を邪魔された少年整備兵はむくれ顔だ。
「なに言ってんだい、こいつはなぁ、その重量増加分を馬力アップで克服したから、上昇速力だって以前と較べれば三割増だ。そのうえに零戦ほんらいの優れた運動性能、長い航続距離、共にむしろ向上させた画期的な新型機なんだよ! ま、おまえも知るとおり、新式のこのエンジンがいいんだな」
 と、三谷飛曹は知らん顔だ。
「燃料タンクの内側には天然ゴムを敷きつめて、被弾しても直ちに発火しにくくし、使い物にならなかった機上電話の性能もおおはばに改善したんですって?」
大河原少年も負けてはいない。
「だけど、このニュータイプの零戦を量産する体制は、いま内地でやっと整ったばかりで、総機数は、実はそう多くはないんさ!」
飛行帽のなかの五分刈り頭を三谷飛曹がぼりぼりと掻く。
少尉はこの降って湧いたような新鋭機にすっかり魅了されてしまった。
確かに、正直言えば、川名少尉は、国内で決起して革命に殉じたい気持ちと、この新鋭機で思うさま大空を飛翔して実戦で戦果をあげたい気持ちとに、引き裂かれていた。彼はいまも引き裂かれている、愛子への愛と、大河原少年への愛とに。
若かったのだ、彼も、三谷、山古志を始めとする戦闘団の仲間たちも。さもなければ、いくら結社指導部の極秘指令が愛子によって直前に齎されたからといって、どうして決起を目前にみすみす出撃しただろうか。
「知ってのとおり、艦載機の積載方式をこれまでの艦内積載オンリーから飛行甲板・艦内積載併用に改めたのは、つい先頃のことだ」と、その山古志飛曹までが寄ってくる。「今回の作戦にしても、艦内積載の艦攻・艦爆・艦戦の機数と運用はそのままに、新方式の甲板積載機をすべてこの量産タイプの新型零戦とし、独自の運用をはかるわけよ」
「ばらばらの各メーカーの工場から剥ぎ取るように、ようやく掻き集めた三百機たらずのこの新型零戦がいま、戦場に向かう各空母の飛行甲板で翼を休めている。見てのとおり、おれたち搭乗員は寄せ集めの、行儀は悪いが腕の冴える猛者ばかりだ。やっかみと冷笑まじりに『甲板零戦隊』なんて呼ばれちゃいるが、おれたちは『独立零戦隊』と称しているんだぜ!」
三谷と山古志の両飛曹が、溢れるばかりの眩い陽光のなか、真っ白いマフラーを潮風にはためかせながら、胸を張る。彼らも出撃前の孤独な迷いからようやく吹っ切れた顔つきをしている。
《敵味方、予想もしなかったこのいわば員数外の零戦隊が、いくさの帰趨を制することだってありうるだろう、あるはずだ、あってみせるぞ、このおれたちが》
と、あぶれもの戦闘機乗りの川名少尉は自負して、日頃のおのれに似つかわしくない、この不意にこみあげる昂揚感に独り苦笑を漏らすのだった。
《苦戦であればあるほど、おれは嬉しい。足指の一本もなくして早めに愛子と逢うことにするか。そうすれば国内戦で、革命の大義のためにこの身を擲って、革命兵士として斃れることも可能なのだから》

 浮上、充電航走中の伊一五の艦橋で、春山繁樹大尉は満天の星屑を見あげていた。
夜光虫煌めく海原をおしわけてすすむ艦首の前方七百五十キロには、アメリカ大陸が横たわっている。
「開戦と同時に、通商破壊戦を実施して、一艦あたり敵輸送船十万総トンを目標に、撃沈せよ」との命令に接したとき、春山大尉の偽らざる思いは《この戦争は長引く、日本かアメリカが滅びるまで決して止むまい》というものであった。
いったいどこの国が自国の商船をつぎつぎに沈められて、無辜の船乗りたちが死んでゆくとき、休戦を受けいれるだろうか? 大国アメリカを相手に休戦がなければ、日本の勝利はない。休戦がなければ日本は滅びるだけだ。その滅びた先に、日本の民衆の輝かしい未来が開けるのならば、滅びるのもまた良し、自分はその礎となってアメリカ西部沿岸の海底に、艦と共に眠るまでだ。
弥生は身ごもっただろうか? 
おれの腹のうえで長い黒髪をふり乱しながら、腰を浮かせては沈め、何度も仰け反っていた全裸の弥生の妖しいまでに美しい姿態が、いまも目に浮かぶ。
おれたちの理想はその子が継ぐとよい。とうていおれたちの世代にそれを実現する時と場所が、そして好機が訪れようとは思われない――アナーキスト革命とは。それにしてもあの最後のひと突きは堪えるべきだった。あのせいでその子が流れてしまったなら、日本に革命の未来はないということか? 
今夜はこの満天の星屑のせいで、おれはどうかしてしまったらしい。
だが、ひとたび戦となれば、考えることは何もない、ただ軍人の本分を尽くすのみだ。帝国主義の兇漢伊藤博文を屠ったあの安重根の絶筆にあるとおり、
「国のために身を献ずるは軍人の本分」なのだ、たとえ国なき国を求めるアナーキストの一兵士であるこの身にしても。
結社第九戦闘団のおれたちはそのほとんどが伊号潜で出撃している。
これまでにも小さな契機ならいくつもあったのに、ついに決起の指令は届かなかった。確かにすでに決起しておれば、おれたちは時代の流れに押し流されるばかりで、それは開戦前の一エピソードに終わってしまったことだろう。秘密結社《シリウス》指導部は開戦・休戦後に一斉蜂起の好機を捉えようというのだろう。
しかし、わが第九戦闘団が国内戦で、いったいどのような戦線を担うのか、いまとなっては想像もつかない。
弥生は一度だけ、上海における彼女の極秘任務をおれに語ってくれた。そのときほど、おれは彼女と肩を並べて上海で闘いたいと希ったことはない。この暗い海のうねりは遥か西の果てで黄色い海のうねりに連なっている。おれが死ぬとき、必ずや彼女はそれと知ることだろう。
波飛沫に混じって貼りついた夜光虫が闇のなかで春山大尉の尖った頬を蒼く光らせる。黴臭いタバコの赤い火がことさらに目立つ。せっかくの煙も艦橋に吹き寄せる海の風が半ばまで奪い去っていった。それでも胃と肺を紫煙と潮風で満たしてはいた。
「あなた、七郎さんとは付き合わないで!」
「おまえの知ったことか! ただの飲み友達じゃないか」
「奈々の兄、七郎が黒竜会の輩と裏で繋がっている」との警告はとうに受けていた。だからといってあの時点、あの場所で果たして消す必要があったのだろうか? いったい誰が、どの筋からの命令で佐々木大尉を消したのか? 弥生は知ったとしても、このおれに語りはすまい。
それにしても「国土と国力が日本の二十倍以上というアメリカの実力を太平洋の戦場で十全に発揮させないために、アメリカが太平洋上に保有する輸送船舶を悉く撃沈する」というこの非情な作戦は方針自体としては正しい。問題は「撃沈総トン数がアメリカの造船能力をつねに上回ってなければならぬ」点だろう。
太平洋の主要航路、ことにアメリカ西海岸の沿岸航路に展開したわが潜水艦隊七十三隻は開戦当初こそ所期の目標を達成したにしても、いずれ消耗する。替えはない。
もともと艦隊決戦思想にもとづいて造られた艦体と、教育された兵員とで、もっぱら通商破壊戦を戦うことに無理があるのだ。通商破壊戦用の小型潜水艦百二十一隻の艦隊が実戦配備につくのは遅れて、あと半年ないし一年は待たねばならないだろう。果たしてそれまで、アメリカの輸送船を封じこめ、かつわが潜水艦隊の戦力をたとえ何分の一でも保持しつづけられるだろうか? 
ともあれ、まっさきに撃沈される艦にだけはなりたくないものだ。
「右舷、四時方向に機影!」
と、突然、右わきの見張員の張りあげた怒声に、先任将校春山はわれに返った。
「急速潜航、ハッチ閉め!」
艦橋内ラッタルをいっきに滑り降りた大尉の頭上に、大量の波しぶきと同時に見張員の塩島が覆いかぶさる。そんなふたりを尻目に小太りの艦長、瀬川少佐は落ち着いたものだ。
「潜望鏡深度。潜望鏡あげ!」
戦闘帽の目庇をぐるりと後ろに回して潜望鏡にとりついた艦長の鋭い目が、去ってゆく敵哨戒機の尾灯を捉えた。危ういところであった。開戦後であれば間違いなくいまごろは爆雷を喰らっていたところだった。いずれにせよ、敵はこちらの正体を確かめに右旋回して舞い戻るはずだ。
「潜望鏡下げ、面舵一杯ようそろ、深度四五、巡航速」
一連の命令を発し終わると流石の艦長も「ふっ」と息をついた。誰しもタバコを一服したくなる瞬間だ。
「舵戻せ、進路九〇〇」
まだまだ敵沿岸警備隊の哨戒圏に入るのは先のはずだったのだが、敵機に発見された以上、これからは夜間の浮上中といえども、のんびりとはしていられない。タバコもしばらくはお預けということだ。何で潜水艦乗りになぞなったのだろう――春山大尉はおのれ自身への問いかけの素朴さに、思わず微苦笑を漏らした。

 そのころ硫黄島を真夜中に発して、内南洋をめざす擬似航路をとっていたウェーキ攻略部隊は朝日の降りそそぐなか、大海原にまだのこる昧爽の気を全身に浴びつつ、進路を真東に転じて俄然進撃を開始した。とは言っても「瑞鳳」の巡航速度は出してもせいぜい十八・五ノット。戦艦ばかりか低速の輸送船五隻をも擁した艦隊は十六ノット以上では進めない。
火のついたままのタバコを無数の小さな白い波頭の煌めく波間に弾き飛ばしながら、「如月」の艦尾から竹山少尉は「ちぇっ」とばかりに、右舷後方五百メートルの「瑞鳳」飛行甲板を睨んだ。軽空母とはいえ、あそこに十数機並ぶ列機は十四ミリ機銃四を備えた新鋭の量産型零戦であるし、艦内の零戦十二機は七・七ミリ翼銃の二十ミリへの換装にいまごろ大童のはずだ。しかし機銃の口径は「大きければそれで良い」というものではない。速く遠く正確に大量に飛ばなければ、敵機を撃ち落すことなどできない。
がっしりしたとした大男で柔道二段、寝技が得意、しかもいささか藪睨みの竹山公平は艦体の揺れに同調して無意識に右足を軽く踏みしめながら、手元の二十五ミリ対空機銃の防盾を拳で「がつん」と叩いた。出撃以来またぶり返した左眼の飛蚊症も彼の密かな苛立ちの種だった。青空を見あげると、絶えず左眼に揺曳する睫毛みたいな翳を、まさか敵機と見間違えはしまいが。
右舷前方七百メートルを進む「日向」の艦尾に一瞥をくれたのち、左舷に目を転じた少尉は信じられない光景を目にした。三百五十メートルと離れていない緑の海面が不意にもっこり隆起して、滝のような白い海水をふり撒きながら、巨大な黒い生物が海面上に半身を現したかと思ったら大きくジャンプして、海面に白い泡の渦だけを残して消えたのだ。さらに二百メートル先では別の一頭が、これは半身を波間に直立させたまま、艦隊を見守っている。あれはブリーチングといわれる行為ではなかったか。鯨の中でも、あの巨大な横鰭から、ザトウクジラの群れだと知れる。小笠原諸島からこのあたりの海域を冬場は回遊して子育てに専念しているらしい。戦はどうであれ、公平は彼らの無事を祈らずにはいられない。慌て者の後藤水雷長などに、敵潜と誤認されて爆雷などを投下されては堪るまい。
思えばこのおれは和歌山の貧乏漁師の小倅に生まれて、捕鯨船団のキャッチャーボートに乗りこむのが夢だった。それが海軍に入ってしまったのは、鉄男の親父の網元に頭を下げたくないおれの片意地と、ひとえに貧乏のなせる業だ。
葉子にさえ遇わなければ、おれはいまも精神面では皇道青年のままだったことだろう。思想的に導かれ、性的に解放されたのは葉子のおかげだ。葉子はおれの厚い胸の下で喘ぎながら、背中に爪を立てて言った。
「あんたたち貧乏人同士が、帝国主義の戦争で血を流しあってはだめ」
最初はそれしか言わなかった。それから
「やや遠きものに思いしテロリストの悲しき心も近づくの日あり」
と、啄木の歌を口ずさんでから、「ココアのひと匙」という同じ啄木の詩を教えてくれた。
《われは知る、テロリストのかなしき心を――/言葉とおこなひとを分かちがたき/ただひとつの心を、/奪われたる言葉のかはりに/おこなひをもて語らむとする心を、/われとわがからだを敵に擲つくる心を――/しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。》
おれは初めてこの詩を葉子の口から聴かされたとき、涙が流れて仕方がなかった。
《はてしなき議論の後/冷めたるココアのひと匙を啜りて、/そのうすにがき舌触りに、/われは知る、テロリストの、かなしき、かなしき心を。》
ハルビン駅頭で伊藤博文を射殺した安重根の縁者も、わが結社には、いるという。葉子の声はおれの胸に染みとおり、おれはそのときひそかに誓ったのだ。
《おれはおのれがアナーキズムの一兵士であることを、身をもって証明して見せる》
と。それにしてもこのおれにロシア語まで教えてくれたあの清楚な葉子と、おれの陽物を口にふくみ、おれの菊座に舌をさしいれさえしたあの妖艶な葉子とは、いったい同じ葉子なのか? まったく別人のような振舞いを苦もなくしおせる大柄な美少女、葉子の思い出に、つい連想が湧いた――七人の葉子がいて、それぞれ七人の同志を指導する秘密結社を、おれは想い描いた――その七人の同志が四十九人の幹部同志で、それぞれ七人の平同志を指揮するならば、三百九十九人のアナーキストがいっせいに各方面で、革命のために行動を起こすことができる。時と場所と方法をこころえ、幸運に恵まれるならば、何がしかの史的貢献を日本の民衆のために果たすことは不可能ではあるまい。
それにしても奈々の兄、七郎、「あの佐々木大尉にだけは近づくな」と葉子はおれに警告していた。その当人の死に顔をおれはまともに見てしまった。裏返った両の白目が笹竹の間の虚空を睨んでいた。鋭利な刃物で頚動脈を抉られていたが、死体は温もりをわずかに残しており、硬直はまだ始まっていなかった。
そのとき、ふと後ろ頭上を過ぎる何者かの気配に、公平少尉がふり返って逆光のなかを仰ぎ見ると、一羽の信天翁が旭日旗はためくポールのうえに翼を休めていた。
《アルバトロスよ、なんとおまえが白く美しく、神々しいまでに輝いて見えることか! 
この戦に果てたなら、このおれも海豚の群れに投じて七つの海を経巡って暮らしたいものだ!》
「如月」はそんな少尉の想いも知らぬ気に白波を蹴たてて一路東進する。
このウェーキ攻略部隊が三つの攻略部隊の中では一番敵に曝されている。いつ敵航空機・敵艦船に遭遇しても不思議ではない。
そのときはためらわず「撃て!」とも命令されているのだった。

 海は少し荒れているが、視界はよい。
物憂げな冬の午後の陽射しに照らされて、制式空母「蒼龍」の艦橋わきラッタルに身を凭れながら、雨宮浩二中尉は目を凝らした。
前方千五百メートルに横一列に高速戦艦が展開しおえていた。互いの距離千メートル。左から、「比叡」「霧島」「金剛」「榛名」の四艦だ。彼らはまもなく一列縦隊となって第一戦速で進撃に移る。(先だって軍令部が威圧のために、インドシナ沖に「金剛」「榛名」の二艦を派遣しようとしたとき、山本五十六は異議を唱えてゆずらず、結局、改装に改装を重ねて恐龍が首を擡げたような艦橋の旧式戦艦「山城」「扶桑」の二艦を送ることに決したのだった。)
四艦そろっての進撃はたしかに勇壮だが別に艦隊決戦に赴くわけではない。明日の深夜にオアフ島パールハーバーを艦砲射撃で火の海にしにゆくのだ。
その先、三千メートルには水雷戦隊がすでに進撃を開始している。旗艦「阿武隈」が蚕豆ほどだとしたら、十二隻の駆逐艦はもう小豆ほどにも見えない。この有力なベテラン水雷戦隊は真珠湾外に出てきた敵残存艦隊への薄暮攻撃を意図している。
残存艦隊? そう、敵艦隊の主力を叩くのは、あくまでおれたち航空兵力だ。そのための機動部隊なのだ。明日未明にはおれたち搭乗員の全員が叩き起こされることになる。整備兵たちは今夜は徹夜だろう。
左舷七百メートルにおれたち二航艦の旗艦「飛龍」が見える。後方八百メートルには一航艦旗艦の「赤城」と「加賀」、さらに後方千六百メートルに「瑞鶴」と、五航艦旗艦でありこの機動部隊の旗艦、そしていまや連合艦隊の旗艦ともなった「翔鶴」が進む。
左舷二千メートルに重巡「利根」、右舷二千メートルに「筑摩」が両わきを固め、駆逐艦九隻が七千メートル四方に散開しているが、敵襲へのそなえとしては、やや脆弱さをまぬかれない。
直掩の戦闘機群が上空にあって、対潜哨戒機が周回し、高速輸送船団は水戦が護っていてくれてこそ一応の備えといえるのだが。さらには敵空母を求めて三段索敵ほども実施したいところだが、奇襲ねらいの機密保持の優先で無線封止中のこととて、それもままならないのだろう。
むしろよくこれまで敵に発見されずに来たものだ。あと一日、発見されなければ勝利はわがものだ。とはいえ、いまならむしろ敵水偵にでも発見されて、たとえ払う犠牲は大きかろうとも、機動部隊同士の正面決戦をいまやってしまうほうが、後々のためにはよいのではなかろうか?
一瞬、閉じた雨宮中尉の目蓋の裏に、奈々のさくら色に上気した頬が映った。
あの秘密にふたりが気づいたのはいつのことだったろう? 
奈々の華奢な指先に頬ずりをしていた細身の美青年雨宮がふとその中指と人差し指をわけて、白くも白い指の股を舐めあげたとき、あの雪白の奈々の肌が見る見るうちに耳朶までさくら色に上気したのだった。
ホックを外すのももどかしく、全裸に剥いた奈々は全身さくら色に染まっていた。茂みに近づけた鼻先が甘い香りに包まれた。その匂いのもとを凝視しながら、青年は奈々の左踝をつかんで一気に持ちあげた。足の指からその股へと一本一本に舌先を躍らせるにつれて、奈々の全身のさくら色はその耀きの光をいや増すかのようだった。
ふっくらとした丘の茂みからは透明な蜜があふれて、シーツを濡らした。右の踝もつかんで奈々の耳もとに押しつけると、尻が浮きあがって、目のまえに黒い茂みにかこまれた小さな湖があらわれた。
舌先でその岸辺をなぞると、微かなうめき声とともになおも蜜が膨れあがり、桃色の岸辺づたいにさらに濃い桃色の菊の蕾へとあふれ出して、青年を誘った。濃い桃色の菊の花弁を一枚一枚ほごすように、青年は舌を操ってゆく。奈々はたまらず、腹ばいになろうとするが、そうはさせない。どれほど長くそうしてやさしくあらそっていたことだろうか?
真珠色に輝く小さな玉が透明な蜜の流れのなかを転がり落ちてきて、一粒また一粒と、雨宮はその真珠色に輝く小さな玉を七粒まで、濃い桃色の菊の蕾のまんなかに舌の先で積みあげたのだった。それから真珠の玉を一粒ずつそっと吸いこむ。
もうそのときには奈々は息も絶え絶えで、静かに押し入ってくる青年の硬く節くれだった一物を根もとまで迎え入れて、
「そのままじっとしていて、おねがい」
と、ささやくのが精一杯だった。一センチ半押し入れては、桜色に色づいて蠢く奈々の背中を眺めながら、一センチ退く。その動作を無限にくり返しながら、雨宮は濃い桃色の菊の蕾がしだいにおし開かれ、めくれあがり、白っぽいピンク色の花弁の内側を見せては、また閉じるさまを目蓋に焼きつけた。
《あの思い出を胸に明日、おれは死ねるのだ》
雨宮中尉は水平線の彼方をじっと見た。まるでそこに横たわるはずのオアフ島が両目に映りでもするかのように。
千切れて波間を漂うおのれの屍も、また。
確かに夥しい死の影だけは紛れもなくそこにあったことだろう。

 太陽の光線が投げかける夕映えの残滓が目路のかなたまでひろがる巻雲の裏側を茜色に染め、剥きだしの鋼鉄の天井あたりに薄闇がたちこめるころ、山本五十六はこそげた頬を吹きこむ潮風に撫でられながら、ぎらつく半眼をようやく閉じて、艦橋の長官用丸椅子のうえで身じろぎもせずに沈思を重ねていた。
《日米の国力の懸隔に思いを致すならば、緒戦こそが最大最後の決戦となるべきだ。しかもその戦いで休戦に持ちこむカードを手にしなければならない。だからこそハワイなのだ。
アメリカ本土の一部であるハワイを攻撃占領すれば、アメリカはいかなる犠牲を払ってでも取り返そうとせざるをえない。
これを洋上で悉く撃退し、アメリカ太平洋艦隊を壊滅させ、アメリカ陸海空三軍および海兵隊に多大の犠牲を強いたうえで、休戦交渉に持ちこむ。
 むろん、それにはあのおぞましい日独伊三国同盟の解消と、中国からの撤退が絶対の要件となる。東京と上海の同志たちの動きがそろそろ実を結び始めるころだ。最後に切るカードはハワイの無償返還だ、秘中の秘ではあるが。
そうして獲た平和は、流された血の代償を求めぬ平和は必ず国内に不満の渦を捲き起こし、広汎な動揺を呼ぶ。そのときにこそ!》
 不意に黒島亀人参謀のしわがれ声が傍らから五十六の沈思を破った。
「長官、なるほどハワイは遠く離れた日本よりもアメリカ西海岸に近いですが、決戦場をこちらが選ぶということは、戦いの主導権をこちらが握るということです」
「ふむ、それで?」
「アメリカの太平洋戦略の要であるハワイを奪えば、太平洋上の制海権は一時的にせよ、わが連合艦隊のものとなります。パールハーバーに備蓄された原油もあわよくば半分なりとも頂きたいものです。これを使い尽くすまでの半年間で戦争を終えればいい!」
「しかし南方の原油にしろ、ハワイの備蓄原油にしろ、いまだわが手中にない原油ではないか! いまないものを当てにして艦隊を動かす、開戦する。なんと愚かしいことか!」
 不服そうな黒島参謀の脹れ面を尻目に、五十六は再び沈思の罠に落ちこんでいた。
《ともあれ、この半年間の戦争に勝利するのが、この山本五十六にいま課せられた使命であり、日本をこの愚かな戦争に嵌まりこませた愚かしい連中を掃除し、休戦から日本国の再編へとお膳だてするのは、東京に残った同志たちの責務である。
さしあたっては、明日未明からの奇襲をなんとしても成功させ、敵空母を殲滅しなければ、途上の陸軍兵士五万人あまりは一戦も交えぬままに太平洋の海底に送りこまれることになりかねない》
 唐突に、五十六は首筋を圧する圭子の右踝を強く感じた。
彼自身の黒光りする頭がようやく濃い茂みの奥に没したときのことだった。
圭子の後頭部と両肩が揺すりあげられるたびに壁紙を擦った。爪先だちした左足はかろうじて床に接しているだけだ。
裸に剥いた両の尻肉をつかんで、女の体重をささえているのは五十六の両手だった。左膝裏に手を添えて助けてやると、圭子は左踝も彼の首筋にあて、おかげで彼自身はいっきに根もとまで深々と濃い茂みの奥の楽園に没入した。
圭子のほとぼらした愛液が五十六の恥毛を濡らして、腰を打ちこむたびに「ちゃぷちゃぷ」とかそけき音をたてる。部屋じゅうに圭子の匂いが満ちる。指先でさらに奥の菊の蕾を探ると、濡れそぼった花弁が細かく震える。
とたんにいっきに硬さを増した彼自身をひき抜くと、五十六は奥の菊の蕾に彼自身の頭を捺しつけた。徐々に両手を下げると、圭子自身の重みで尻の菊の蕾が貫かれてゆくのだった。
圭子の吐く息の匂いが変わったことで、いただきが近づくのが感じられた。両手で尻を持ちあげ、抜きにかかると、圭子はたまらず意味不明の言葉を発しながら諸手で首にしがみついてきた。
ソファーにそっと下ろして這い蹲らせて、尻を高く掲げさせ、背後からあらためていっきに貫く。部屋の隅に逃れようとする圭子を押しつぶすかのように、五十六は精を放っていた。
アナーキスト芸者お圭の膣に深ぶかと、アナーキスト提督の精が放たれた。この歴史的些事の意味を知る者は当時いなかった。
「あたしはユン・ボンギルの縁者だわ、あの上海抗日戦線の」
「おまえが京阪神でどのような活動を展開しようと、それはおれの拓く地平の彼方に通じてゆく。革命の荒れ野めざして独りとぼとぼと歩むこのおれを尻目に」
《だが、圭子も知らぬことがある。〈柳〉と呼ばれるあの隊員は、表向きは平隊員だが、この山本の指令だけでひそかに動く、生まれながらの殺し屋なのだ》
 頭をひと振りして山本長官は薄目を開けた。
操舵室の幕僚たちが黒い影絵のように身じろぎもせずに直立して前方を凝視している。横に細く穿たれた長い窓から見えるものは、濃淡だけの墨絵にも似た無の世界だけだというのに。
「長官、不戦派とみなされて皇道青年たちにつけ狙われながらも航空勢力の確立に奔走した内地での日々が思い浮かびますなぁ!」
と、またも傍らから沈黙を破ったのは参謀の亀人の嗄れ声だった。決戦をまえに落着きのない男だ、黒島は。
「さすがに空軍を創設するまでには至らなかったものの、陸海軍飛行学校の統合は進められつつありますし、陸海軍航空隊の協同協定も成りました。陸海航空機部品の規格統一も進められ、パイロット二十五倍増の手も打ちました」
「ふむ」
「そりゃあ、全機種までとはゆかなかったけれど少なくとも零戦二十倍増産の道筋はつきましたよ。既存の航空機メーカーばかりではなく、二、三の主要な自動車メーカーも海軍航空工廠の指導下で、航空機エンジンの開発と機体の量産準備に乗りだすまでになりました。まもなく彼らのラインはフル稼働して新鋭機を続々と吐き出すことでしょう」
「うむ、広大な大海原は艦船で渡るのはまだるっこしい。もともとおれは中攻機の洋上ネットワークを構築して敵艦隊・敵船団を捕捉殲滅することを考えていた。中攻に随伴すべき足の長い護衛戦闘機の開発途上で零戦が生まれた。まさに瓢箪から駒が出た」
「瓢箪から零戦ですか」
「もともと資源に乏しく技術基盤の薄い日本が、いまたとえ短期間でも、対米決戦の一局面において、数的にも優位に立とうとするなら、この零戦の大量生産とパイロットの大量育成、それに陸軍の一点集中投入しかあるまい」
「たしかに、意外にも陸軍はよく理解してくれたと言えますね。最終的にはハワイ決戦に最大七個師団までの投入を諾ったし、隼七十五機、重爆十五機と一〇一司偵五機を長官直属という条件で海軍指揮下に委ねるという気前のよさには、わたしも吃驚しましたよ。もっともそれよりもはるかに重い条件が控えてはいましたが。
『海軍の南方作戦は陸海軍の事前協議どおりに進める』という、最終的にはハワイ海域を決戦場に選んだ連合艦隊にとって、なんとも荷の重い話ですが、そうせずんば本作戦は海軍軍令部の諒承すら得られなかったのだし、致しかたありませんなぁ!」
と、よく喋る参謀だ、黒島は。これが風呂好きの仙人参謀とは呆れる。
「台湾に結集した基地航空隊によるフィリピン、クラーク基地の空襲は不可欠でした。それにしても同じフィリピンのダバオ米海軍基地を空襲するために虎の子の軽空母四隻を割かずに済んで助かりました。ぎりぎりの距離だったが、基地航空隊の中攻と零戦がこれにも対処することを肯ってくれ、おかげでハワイ、ミッドウェイ、ウェーキの各攻略部隊に軽空母を一隻ずつ回すことができました。
この機動部隊に残りの軽空母一が加われば万全に近い態勢とはなったけれども、南方作戦に大きな破綻が生じれば、こちらの作戦にも支障があるのだから、なんとも致しかたありませんねえ」
「なおそのうえに海軍艦政部の頭の固さはまったく度し難い。どうしても『大和』の空母への大改装には応じようとしない。とうとう戦艦としての艤装も終えてしまった。
まあしかし、続く僚艦の『武蔵』そして『信濃』だけは、空母への大改装をやっとのことで呑ませてやった。
こちらからの要求は『瑞鶴』並みの速力だけよ、洋上に浮かぶ船に不沈艦などもともとありえないからな」
と、おれも負けずに言ってやる。ついでだ、はっきりと言ってやる。
「既存の戦艦は本作戦で使い切る肚だ。できるだけ盛大に撃ちかましてアメリカの目を晦ましてほしいものだ。これからの海戦は空母主体の機動部隊同士の戦いとなることをあまり早くに悟られて、あちらに空母の大増産に踏み切られたら、ことだからな。
工業力に劣る日本は必ず負ける。わが戦艦群の艦砲射撃の威力、その凄まじさに狼狽してアメリカが高速戦艦の建造にかまけてくれるなら、休戦までの貴重な時を稼げるのだが」
「潜水艦部隊は一纏めにして高橋中将に託しましたよね。あの一徹者の提督は一旦納得したからには、伊号潜全艦を海底に沈めてでも、通商破壊戦を戦い抜いてくれることでしょう。アメリカ西海岸の事実上の封鎖をたとえ一月半でも巧妙に成し遂げてくれるならば、その大事な時が稼げるわけです。
やがて高橋提督のもとに、百二十一隻の新鋭潜水艦の艦隊が太平洋に散らばる島々の秘密基地を根城に、太平洋全域にわたって補給・通商破壊戦を展開するとき、彼らはわが連合艦隊に比肩しうる重責を、この戦争で担うことになるでしょう」
「それにしても、この広大な太平洋上を結ぶ長大な補給・兵站線の問題は、この山本にして手つかずだ。一将たる資格はない。
わずかに二千トンクラスの貨物船を同一規格で大量造船するように全国の民間造船所に手を打たせたくらいのことだ。優秀な船員を大量育成して確保しておく策も、まだその端緒に就いたばかりだ。
輸送船にしても端から軍需が民需を圧迫するようでは、この戦争に戦わずして敗れたようなものだ。太平洋を〈大きな水溜り〉と呼ぶ気にはとてもおれはなれないね」
どうやらこのおれにも黒島参謀の長広舌がうつったようだ。
「太平洋を行き交うわが船団の対潜哨戒策は幕僚の奥宮に任せた。二式大艇・中攻・水戦主体の哨戒圏を繋ぐこととなろう。そのうえで低速の輸送船団には爆雷搭載の砲艦なりともつけねばなるまい。
奥宮には鹵獲・回収した戦争資源の有効利用策も一任してある。変り者のあやつにとっては腕の見せどころというわけだ」
「それと、これは長官のお耳に入れておくほうがよいのかどうか?」
「なんだね?」
「確認したわけではありませんし……」
「なんだね、きみらしくもない、言い出しておいて、はっきり言いたまえ!」
「なんでも陸軍のほうでは、全徴用船に常時、連合軍捕虜を一定数乗船させておくことにしたとか」
「なんだと? なんでそんなばかげたことを!」
「雷撃防止に多少とも役立つと考えたのでしょう。日本の貨物船を一隻沈めれば、連合国の将兵十数人が確実に命を落とすわけですから、爆雷や対空機銃よりも有効かと」
「人間の楯か? なんということを!」
すでに日は完全に没し、早くも宵闇が大海原を支配していた。
立って窓外を見あげると、西空に絹雲のなかを繊月が翔けていた。
風に乗って実際に翔けているのは絹雲のほうであろうに、あの繊月はどこまでも虚の世界を翔けてゆく、この五十六にも似て。

「ついこのあいだまではウスリー川の漣の立てる音に耳を澄ましながら、霧の彼方を見晴るかして夏の宵を過ごしていたこのおれが、いまは輸送船の鉄板一枚隔てて、耳朶を轟かす北太平洋の厳寒の荒波に揉まれているなんて!」
と、若いくせに年寄りじみた仕草で、従兵の川上操六が首筋を揉みながら、誰にともなく呟く。
痩せぎす大柄で案山子のような姿顔つきの陸軍少尉新庄博は、船倉の高い天井にたった五つ燈る白熱灯を見あげた。
このさして広くもない息苦しい船倉に四百人、あと七つの船倉にも四百人ずつ、都合三千二百名の陸軍将兵と、残り二つの船倉に山砲・重砲など重火器や弾薬が山と積みこまれている。むろん、一ヶ月分の食料もだ。
上層に将校専用の船室がいく室かあり、五、六人の相部屋だが、新庄もわりあてられてはいた。それゆえ、そう長くは船倉にばかり留まってもおれないが、同じ孤独を感じるならば将校室の五、六人のあいだよりも船倉の兵四百人のあいだでのほうが新庄には好ましかった。
「ハワイ、オアフ島に敵前上陸の話は先夜、聞かされたばかりだ。仁川の港から日本海を越えて松前の沖を通過するまでは、おれたち兵のあいだでは帰国話に花が咲いた。ウスリー川の対岸に広がるソ連領、その日本海随一の軍港ウラジオストクに通じるシベリア幹線鉄道迂回線、そのイマン鉄橋を眼下におさめて、時いたれば瞬時に粉砕する一大榴弾砲を擁した難攻不落の虎頭、そして東寧の要塞に暮らした二年半……移動とくれば、帰国かと思っても不思議はなかった。
ええ、そうじゃないですか、少尉?」
 気がつけば、操六が食い入るようにこちらを見つめている。
「しかし、仁川沖での念の入った敵前上陸訓練、夏服携帯の完全装備での乗船となると、いくらおまえでも首を傾げざるをえなかったろう?」
「おまけに重機一、軽機八と弾薬が小隊ごとに、新型小型手榴弾八個が各人に新たに支給されたとなると、こりゃあ、まぢかな実戦、それもよほどの接近戦でも想定しなければ、行軍にはかえって厄介な荷物ですし」
「機関銃中隊の補充振りはこんなものではないという。どうもきな臭い、おまけに幹部将校連は眦を決している……そんなことはおまえも見てきたとおりだったじゃないか」
「北進論、南進論は兵隊仲間でも耳に胼胝ができるほど聞いていたけれど、東進していきなり対米決戦とは、さすが海軍の五十六さんの考えるところは違う、しかしよくも陸軍のお偉方がそれに乗ったものだ。
おかげで今日のおれたちの状況があるわけでしょう?」
 近くに腰をおろして膝小僧を抱えたり寝そべったり、思い思いの姿勢で船体の激しいピッチングとローリングに身を任せて船酔いに耐えている小隊の連中は、いずれも古くからの同志で気心が知れていた。彼らは彼らで喋っていた――
「銚子の兵隊のたった一人の叛乱って、知っているか?」
「ああ、将校、下士官をぶっ殺して、最後に手榴弾で自決したやつのことだろう?」
「なんだ、知っていたのか」
「トーチカに立て篭もって、制圧に一個中隊を出動させ、乱射乱撃だってな」
「兵隊仲間で知らないやつはいない。緘口令が出ただけでも、噂の種だからな」
「叛乱の組織化ってのは、難しいことよな」
「弾は後ろからも飛んでくるって、前線じゃ、ままあることなんだけどな」
――それゆえ、とくに声を落とす必要はなかったが、操六の不意の囁き声に釣られて、おれもつい低い声で喋っていた。
「うん、中途半端なことになってしまったが、天皇の聖旨を受けた唯一の部隊、七三一部隊のことは、軍内部にいるとかえって具体的な情報が集まらないというか、おれたちのいるのが実戦部隊なので、当面の課題を外れることは皆目わからない」
「細菌戦や毒ガス戦を準備して、捕虜や囚人を〈丸太〉と称して生体実験をくり返しているとのことですよ。でも、秘密裏に実態を克明に調査して、関係者を処断し、部隊を解散に追いこむほどの政治力が、果たしておれたちの結社にあるんでしょうか?」 
「しかしな、実力で施設を破壊し、捕虜・囚人を解放するには到底、小規模な戦闘では片がつかんぞ。アナーキスト秘密結社・第六戦闘団のおれたち単独では、いささか力不足は否めない。施設は破壊しえても、捕虜・囚人を救出することは覚束ないんだ。とはいえ、座視できることではない、人間ならば! 実はな、連絡員の蘭子に糾したいところだったが、果たせなかった」
「奈々の兄貴の七郎は、いまは内地に戻っているらしいけれど、危険な奴です。何人もの密偵を自在に操って、こちらの秘密連絡網に迫ってくる。いずれ決着を付けねばならないでしょう」
 と、操六は念を押しに掛かる、このおれに。
「内地の公然・非公然組織は壊滅し、思想を同じくする者のうち残ったのは、早くから仲間との接触を絶ち、完全に地下に潜行したおれたち秘密結社の同志たちだけだし、いまはまったく活動の余地がない」
「これじゃ、おれたちはまるで忍者・隠密の〈草〉みたいなものじゃないですか。じっと戦時体制のなかに埋もれて、正体を明かさぬまま死んでゆく。行動によっておのれの思想を明らかにし、大義のためにこの身を擲つことは決してない、秋至るまでは!」
「娼婦のお蘭、こと蘭子とはハルビンの魔窟で遇った。会いはしたが、蘭子は結社でのおのれの役割についてとなると、とたんに口が重くなる」
「若いのに似ず、ときおり凄愴の気が、ふと美しい横顔を過ぎることがある。ありゃあ、手ずから人を殺めたのも一人二人ではないでしょう」
そうだった。
事が済むと蘭子は水煙管を一服して吸い口を新庄少尉に回した。
甘ったるいどうということのない煙草の味だったが、しばらくすると空っぽになったはずの玉に湯が沸くように力が漲るのを感じ、下を向くとおのれ自身が鎌首を擡げていた。蘭子は小さく笑って裸にハイヒールのなりで戸口の棚から七色のガラス玉に革紐を通したものと香油の入ったコップを取ってくるなり、おれに手渡した。
「ん?」怪訝顔のおれに、蘭子は立ったまま豊満な尻をおれの顔に圧しつけた。
「油に浸してから入れて」と、蘭子。
おれは香油に塗れて滑りやすい赤玉を摘まんだ掌で、蘭子の神々しい尻を押しわけた。深い紅色の唇はすでに充分に潤っていた。そこでおれはそのうえの濃い杏色の菊の蕾に赤い玉をおしあてていっきにめりこませた。
「うっ」と、呻く蘭子にかまわず、橙玉、黄玉と、つづけざまに埋めこんでやった。
《こんどは少尉の番》とばかり、蘭子がおれの袋を摘まみあげて、その奥に隠れたおれの臆病な菊座に紫玉、藍玉、青玉とおしこんだ。ふたりの鍵と鍵穴のあいだには、こうして緑の玉が揺らめくばかりだった。
おのれのごつく節くれだった鍵を、蘭子の濡れて吸いつくような紅色の鍵穴に差しこむと、ひと押しひと曳きごとに、蘭子の潤んだ肉の襞ごしにガラス球が蠢くのが感じられた。
こらえきれずに奥までいっきに強く貫くと、その拍子に蘭子の黄玉とおれの青玉が外に飛びでた。
未曾有の快感が二人を襲った。その快感は果てしなく射精とオルガスムの渦が無限に続くかと思われた。
外は吹雪いていたのに、暖かすぎる部屋は芥子と愛液の匂いにむせ返るようだった。気がつくと、七色の玉を貫いた革紐は床に転がっていた。
その表面には何かおまけさえ付着していた。

一人の私が、一個の爆弾をもって、最も多くの人に、最も強い衝撃を与えるために
天皇を狙うことは、最も能率的だということを記憶しておいてください。
(金子ふみ子)
 誰が投げた飛礫やら、詩人金子光晴がガラスに咲いた創の花に見入っていたころ、日本の社会の底辺には少しずつ変革を萌す粒子が異物のように舞い降りて、鉱物的なその粒子たちは種にもならず芽も出さずに深く沈んでは腐っていった。
絶望に辿りつくまえに早くも諦めが拡がる、世界史的に観ればかなり特殊な土壌にこそ、日本という島国の心情は育まれていったらしい。
ここは平河町にある粒良の屋敷内の一室。時刻は明け方に近い。
「そもそも公武合体に傾く孝明天皇を、側仕えの妹を唆して砒素を盛って毒殺したのは、下級公家の執事岩倉具視だったそうじゃないか?」と、床柱を背に胡坐をかいた粒良が泡盛の古酒をぐびりと飲む。「主上が筆先を噛む癖が抜け切らぬのを見澄まして、磨った墨にたっぷりと砒素を含ませて置いたんだってな!」
「いや、あれは長州藩下忍の伊藤博文が厠に忍びこみ、特殊な槍で主上の尻を突き上げて刺殺したのが事の真相だ。ごく単純な手口さ!」と、吐き捨てるように〈火の玉小僧〉が言い返して盃をあおる。「だいたい明治天皇にしてからが、虚弱な真帝がいつのまにか相撲好きの大室寅之助なる若者の偽帝にすりかわっていたじゃないか!」
「そうして初めて成った薩長による王政復古・倒幕・明治維新政府であるというのに、政権の正統性を無理にも主張するためにか、台湾、朝鮮を侵略し、あたら内外の若者の命を蕩尽して日清・日露の大戦争をおえたころには、この日本の脆弱な天皇制資本主義がいつのまにか欧米並みの帝国主義的な植民地経営の衣をまとっていた!」
「薩摩輩は琉球・奄美三島を搾り取ったその同じ手口で、いまは台湾・朝鮮・アジアを搾取している」
「そうとも国内の矛盾はもっぱら海外での戦争で解消、あるいは糊塗するパターンが常道化して、アジアの犠牲のもとに二十世紀の現代に至るも日本は「神国」のまま、日華事変・大東亜洋戦争へと突入してしまったんだ!」
「こんな可笑しなことがあるだろうか? それなのに国民は少しも疑わない。およそ歴史を識る者は口を噤んで語らない。これを時代閉塞の状況と呼ばずしていったいなんと呼ぶんだ、ええ?」